オセロ
世界がひっくり返った。
ダビテが、瞬時に変わる。
俺が、ちっとも気付かない程瞬間。
いやダビテは、変わってなんかなかったのかもしれない。気付かない振りをしていた?
でも、あのダビテが。何年も前から、ずっと一番隣にいるダビテがずっと、こんなの抱えてたなんてまさか。
バタバタバタとひっくり返って一気に真っ黒。
目の当たりにされて俺は、逃げ場もない。
ああ、こんなやり方、撤回もできやしない。
コイツ、白か黒かしか、ねえ!
折角の短縮授業だってのに、たかが半日降った通り雨のせいで。しかし、それでもう今日は、テニスコートは使えないのだ。でも今日我慢すれば明日は土曜で丸々一日中練習だ。抜かるんだコートを足跡だらけの惨状にするわけにはいかん。
ああ、うちの学校のコートも、どっかの氷の帝国だかみたいにハードコートだったら。いやいや、愛校心は人5倍くらいはある自信がある。羨まん我慢我慢。
後頭部に腕を回して、欲求不満でだるい筋肉を引き伸ばす。骨がコキ、コキと泣く。あーテニスしてえ。骨の髄までしてえ。
空はさっきまで降らせてたのをすっかり忘れたかのようにカラリと晴れてて、更にやるせなさを煽る。
サエが「部対抗体育館の余ったスペース争奪戦・じゃんけん一本勝負」で勝ち取った(サエはじゃんけんが異様に強い。空恐ろしい程)体育館の一角は、それでも部員全員が何とかストレッチと、無理をして基礎訓練ができる程度だった。
それでも有り難く使わせて貰わねばならない。涙を飲んだ他部もいるのだ。ありがうございます負けちゃったみなさんそして佐伯神(邪神かもしれんが)。南無。
うちの部はみんな仲が良いっていうか、家族みたいなもんなので(驕りなんかじゃない。と、俺は思っている。何分どいつもこいつも小学生からの旧知の仲だ。悪いとこも、良いとこも見てきてるつもりだ。そして、どいつもこいつもテニスべったりだってとこも)、ストレッチを組む時のペアは基本日によってバラバラだ。
その中で例外なのが、サエと樹っちゃんみたいなダブルスがメインのペアだ。あと、俺と、ダビデ。
「はーいストレッチ始めー!みんな組んで組んで!」
多少はサマになってきた剣太郎の号令で、皆方々に散る。相方探しにわらわらしている奴らの中で、真っ直ぐ迷いなく向かってくる気配を背中に感じる。
振り向かず、床に腰を付けて前屈の構えを取る。
肩甲骨の両側に武骨な掌の体温を感じたと思ったら、ゆっくり前に押し倒される。いつもの。無理のない、心地よい程度までの力。
「あー…鈍っちまう」
「あー…してえ」
「テニス」
「してえね」
「な」
「うい」
「ダルくて、眠くなってくんのがムカつく。おもっくそテニスしてえ」
「俺は眠くない」
「ん?」
「バッチリ寝てた。四時間とも」
「ダビデー…てめえなー!」
いけしゃあしゃあと授業中の居眠りを自白するダビデに思わず語尾を荒げる。振り返ろうとしたのを察知した背中の掌が、ぎゅうと更に力を加えて、顔上げれないくらい上半身を床に押し付けられた。
「、のヤロー…期末近えのにっ」
「バネさん背中、汗かいてる。いつもより」
「汗じゃねえよ湿気だよ!話逸すな!」
「湿気じゃねえよ汗だよ。バネさんの汗の匂いする」
「…てめ。次はもう見てやんねえからな」
「え、え!?ひでえ!」
「どっちが!」
「バネさんが!」
「テスト前に泣き付いてくるくせに、授業中グースカ寝てるかネタ考えてるか!な奴の方が!」
「えっ何でわかんの!?」
マジで驚いたのか、背中掛かってた力がふっと退ける。
ぐるっと上体ごと捻り上げて、懲りないアホの顔を睨み上げた。
「わからいでか!」
懲りないアホの顔は、やっぱり懲りずににへと小さく笑ってた。
「バネさんって、マジで何でもお見通し。俺のこと」
わからいでか。
わからいでか。
お前のことなんかこれっぽっちだって。
基礎練習なんて、やることは限られている。
結局練習時間外まで残ってたのはいつものレギュラー面子で、でもそれもオジイの「もう、日が橙」の一言で、解散となった。
テニスらしいテニスをしてない体がやり切れなくて、それでもうだうだ床に足がしがみついている。
そんな俺に、にっこり笑った剣太郎が、モップをぐいと押し付けてきた。
「バネさんは、まだ体育館に居たいんだよね?」
雨の日等に体育館のスペースを間借りすると、その日はお邪魔させて頂いた部がモップ掛けをするのが、うちの学校の暗黙ルールだ。
しかし体育館には居たかったが、別に掃除がしたかったわけではないんだ、が。
剣太郎の後方で、サエがにっこり爽やかな笑顔を浮かべている。アレが参謀か…野郎。
「あーあー居てえよ体育館に。恩返ししてやらねえとな」
半ヤケで受け取ったモップだったが、口に出してみるとあっさりその気になれた。テニスしなくてもそれでも、少しでも長く運動する場に居たかったのだ。
「ハイ。俺も、俺も」
振り返ると、長い手を上方ににゅっと伸ばしたダビデが、倉庫からモップを引き摺ってこっちへやってきた。
「ダビデもー?わあよかったねえバネさん!これで早く片付くねー!」
押し付けておいて何を言う…と思いつつも、ダビデの助っ人は確かに心強い。持つべきものは、やっぱ最高の相棒だ。
「おっし!俺とダビデが組めば、こんな掃除なんて日が沈みきる前に片付いちまうぜ!なっダビ!」
「うい」
便乗して胸を張るダビデがまた嬉しくて、がっちり肩を組んで頭を擦り寄せる。ダビデだけに聞かせるように小さく、ありがとな、と呟いて横目で隣を伺うと、至近の目だけが少し歪んで、笑って見えた。
「体育館の床を、つるつる、つるの恩返し」
「寒っみんだよ!」
空気を割くよにぽこっと出てきた駄洒落に、くっつけてた額を引いて、今度は頭突きとして食らわせてやった。
「…っ……てえー…」
そのいつものやり取りに、みんながからから笑う。
「アハハハ流石手馴れてるねえーバネは!俺なんか今の、ギャグだって気付かなかった!」
あまりに下らな過ぎて!と続けるサエを、樹っちゃんがホントのことを言ったら可哀想なのねーと柔らかくしかし容赦なく嗜める。
「ま、その意気で掃除の方もお願いね。クスクス」
笑いながらもサッサと体育館を後にする亮に続くように、他のみんなもぞろぞろ部室へと向かって行った。
急にしんと静かになって、このただっ広い空洞で、俺と、ダビデしか。この違和感。
ダビデの存在が、やたら浮き出て感じる。きっと沢山の人間がいるのが当たり前の場所に、ただ二人っきりなせいだ。落ち着かないのは。だから、ダビデの肩が運動量の割にはやたら熱く感じるのは、気のせいだ。
なるべくぎこちなくないように、ダビデの肩から腕を外す。
「さーサッサと済まして、サッサと帰っぞ!俺は腹が減った!」
ダビデはいつもの石像面で、ういと頷いた。
別に誰かに見られているわけでもないのに俺達は、有言実行日が沈みきる前にモップ掛けを済ませようと躍起になった。
二人とも負けず嫌いなのだ。そして、ぜってえ負けてたまるかって、二人揃って息巻いて、無我夢中になるのが楽しい、嬉しいのだ。
段々誰かがどうってのはホントどうでもよくなってきて、只管俺達ばっかりで、楽しいのだ。
体育館の一番角からの俺のモップと、真反対の角からのダビデのモップが駆け抜けて、駆け抜けて、ど真ん中センターサークルでガッツリぶつかる。
「おっし!」
「掃除、完了!」
日は、さっきよりも橙の色が濃くなっていたものの、まだ沈みきっていない。
やり遂げた顔で、ダビデがにっと笑った。一緒にやり遂げることができる、相棒の俺しか見れない顔。それを誇らしく思う。
なあ俺のダビデは!
ホントはこんなにも熱くなれて!
こんなにも良い笑顔できんだぞ!
誰も彼もに自慢したい気持ちがわっと込み上がって、でもその衝動は、こんな大事なもの誰にも見せないで俺だけが知っていたいなって、ガキじみた照れくさい感情で押さえ付けられる。
なんて、勝手に照れて、ダビデから目線を外した。
改めて体育館を見渡すと、本当に誰も居ない。人間二人には有り余る程大きな箱だった。
斜陽が、空気に漂う埃を照らして、光の道のように見える。道は、高い位置にある窓の分だけ、ワックスで光る床に落ちていた。必死にモップ掛けしているときには気付かなかった。
俺とダビデの間にも、遮るように橙の光が渡っている。目の前のそれに、その光の道に触れられるような気がして、橙の中に手を伸ばす。当たり前なのだが、感触はなかった。が、暖かかった。光は、ここにあるのだなあ。何だか諦めきれずに、光の確かな感触を探ろうとした。
唐突。燃える橙が暖かい橙の色の中に割り込んできて、俺の視線を無理矢理奪った。
気付けばダビデが、間近に迫っていた。斜陽に照らされて色濃く光る橙の髪が、宙に浮いたままの俺の指に絡まる。咄嗟にその手を引いてしまった。なんでか、熱い。
しかしダビデが許さなかった。逃げようとした手首が捕まれて、じりじり焼かれる。
「バネさん、俺しかいないのに、俺を見てない」
夕陽に、目の前の薄い虹彩も、燃える。その火に、さっきまでの無邪気さは欠片もない。
「俺は、いつだってバネさんしか。見てないよ。バネさんだけだ」
コートへ向かう真摯さとも違う、火。
「俺を、見ろよ」
さっきまでガキみてえに無邪気にモップ振り回してたくせに何を!
さっきまで馬鹿言って、いつもみたいにみんなと一緒に騒いでたくせに何を!
さっきまで何の違和感もなく自然と組んでストレッチして、戯言言い合ってたくせに何を!
「俺を見ろ」
これが!こんなのが、ダビデか!
「…べ、」
つに、見てなくなんかねえよって、たまたま、日の光に目が行っただけだ、それだけのことだって、軽く流そうとしても声が出ない。それだけのことなんだ。それだけのことじゃないか!
何でだ、何年一緒に居たと、いうんだ俺達は!何年俺がお前を見てきたと思ってんだ!どうしてそんな顔するんだ!
恐いのか、恐いのか俺は。何かが崩れる。バタバタ引っくり返る。黒に。
橙の日は微かになって、薄青くなってゆく。が、ダビデの目はぎらぎらと濡れている。
「バネさん、」
止めてくれ。誰か、何か!
でも只もうだだっ広い空間ばっかりで、縋るものが何もない。膝が震える。そんな、まさか、俺が、ダビデに、ダビデが、俺に、まさか!
「バネさん、」
言うな!切実に願う。命乞いでもしてるみてえな顔してんだろな、俺。
でも、臆病でも滑稽でも卑怯でも、それでも、何年一緒に居たと、いつまで一緒に居たいと願ってると、思ってんだ!いつまででも、だ!だから、だからダビデ、
俺の声にならない願いは、ダビデの唇で塞がれた。
「ごめん、耐えられねえや。好きすぎて、あんたが」
もう逆転できやしない。流石に俺も、それは解った。いや、どっかで解ってたくせに、目を背けていたのかもしれない。
そしてそれを、ダビデも気付いていたのかもしれない。そして黒を押し付けても、俺が手を振りほどけないことも。
モップの柄が二本、バタン、バタンと落ちる音が掴めない空間に響く。
最後の最後には、俺もバタリと引っくり返された。
光の道は、もう見えない。
何処に進めばいいのか、解らない。
真っ黒だ。
070725
リターン
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