はるかぜとばら
隣んちにダビデが引っ越してきて、もう半年以上経って、初めて二人で過ごした春休みのことだったと思う。
「バネちゃん、バネちゃん、これバネちゃん!」
いっこ下にしては俺よか随分小さい、もちみたいに真っ白いダビデの指が、絵本の中の黒い羽根した長い髪の天使を、ばっちり指した。
「…これ、女じゃねえか」
「ううん。あらしの王子さま。黒い羽根で、でも、はるかぜになるの。ね、バネちゃんでしょ?」
確かに俺の名前は、黒羽で、春風だ。名前は。
だけど俺自身は、頭ボサボサ小汚くて、背ばっか伸びてほそっちくて、春夏秋冬半袖短パンの、どう見たって何処にでもいる小学生のガキだった。
天使っていったら、ダビデの方がよっぽど天使。
くるくる赤茶の巻き毛に、日本人離れした顔。目がでかくて女子みたい。いや、女子よりも。
こんな絵みたいなきれいなやつ、美術の教科書か何かでしか観たことねえって思って、初めて会ったときスゲエびっくりしたもんだった。
でも中身は、ちょっと内気で弱虫なものの、ちょこちょこ後ろ着いてきて、何でも俺の真似っ子しては何でも楽しい嬉しいって喜ぶ、俺らと同じガキだったけども。
巻き毛の様と日本人離れした表情の乏しい顔と、あと強くなれよって願いもこっそり込めて、ダビデ像からあだ名を貰ったけども、まだまだ本物のダビデには程遠い、俺の弟分。
俺んとこのダビデは、俺にはよくわからないことを、時たま言う。でも別にそれは不快な感じじゃなくって、ダビデにしか見えていない世界の色を少しだけ、見れたような気になって、何とも言いがたい、もやっとするようなふわっとするような不思議な気持ちになるのだ。
その日も、嬉しげに隣の庭から呼ぶもんで、垣根を乗り越えて、こっちの庭からあっちの庭へ駆け付けると(これをやると母さんにスゲエ怒られる。でも当時懲りずによくやってた。もんで、俺んちとダビデんちを仕切る垣根は今だに一部分だけ不自然に凹んでる)、ダビデが古ぼけた絵本を開いて、縁側から必死に手招いていた。
そんで、冒頭のやり取りだ。
その絵本の挿絵はとてもきれいだったけども、今思うと神々しさっていうのかな…子供心には、ちょっと怖さを感じて何だか触れ難かった。
でもダビデがあんまりにも嬉しげにバネちゃんバネちゃんと繰り返すもんで、俺はそんな女々しくねえよって意地になって、ダビデの手から絵本を取り上げて、恐る恐る表紙を覗いた。
「………はるかぜじゃねーじゃん」
そよかぜとばら、とあった。
内容は、何だったけか。
嵐の王子は地上のあらゆるものを壊してまわってたけども、懸命に咲く一輪のばらに心打たれて、どうしても壊すことができなくなっちまって。
で、天の魔王様だかなんかが激怒して、嵐の王子の羽根を折っちまって、王子は地に落ちちまって。
でも、そよかぜに生まれ変わることができて、いつまでもばらのことを守りましたとさ。
みたいな感じだったと思う。多分。
「で、でもね!お母さんが、そよかぜって、今の季節とかにそよそよ吹いてる優しい風よって言うから、じゃあはるかぜだねって言ったら、そうねハルくんねって言ってた!」
おばさん…ちょっと怨む。
納得いかなくて、胡座の膝を落ち着きなく揺すりつつ、ゆっくりページを捲ってく。
黒い王子と、一輪のばら。
魔王の逆鱗に触れて、天から真っ逆さまに落ちる王子。
最後のページでは、王子は水色みたいな桃色みたいな羽根を持つ、そよかぜになっていた。
「やっぱこれ、おれじゃねーよ。おれこんなきれいじゃねーもん」
「きれいだよ?」
ダビデが、まるで俺の方が変なこと言ったかのように、首を傾げてさらりと言うもんで、俺は呆気に取られて言い返せなかった。
そんな俺を置いて、ダビデはまた絵本を指し示す。
「でね、これがぼく」
そよかぜに見守られる、赤のような濃いピンクの色した一輪のばら。
「はるかぜがね、守ってくれたんだよ。だから、咲いていられるんだよ。バネちゃんが守ってくれるのが、とっても嬉しいんだよ」
「ありがとう、はるかぜさん」
そしてダビデはばらのように笑った。
「バネさんって、天使だよね」
俺の口から勢いよく吹出した、泡を含む透き通った飛沫が、春先の緩い潮風に乗ってきらきら舞った。
「てめ…この、ダビ…!スプライト一口分返しやがれ!」
足下でしゃがみ込む、でっかい背中をげしげし蹴る。海辺の岩場は足場が悪くて、おもっくそ蹴れないのが腹立つ。
「わ、ちょ!バネさん落ちる落ちる!」
「おうおう盛大に落ちちまえ!」
「流石にこんな時期の海なんて、風邪引く!春風のせいで、春、風邪を引く…プッ」
「こ!の!バ!カ!ダ!ビ!がっ!!馬鹿だから大丈夫だろ!」
「馬鹿でも引く!」
岩場にしがみつきながら、ダビデが半身をこっちに向けて抗議するが、その肩を尚もでしでし蹴り続ける。
唐突にわけ解らんこと言い出すのは変わらないが、俺んちのダビデも本物には及ばずとも、随分図体もでかくなって、顔も男らしくなった。絵画みたいな顔なことには変わりないが。
そして俺も、ほそっちいだけじゃなくて筋肉も付いて、あんま中三に見られないくらいには逞しくなった。上背も更に184cm。勿論天使のテの字もない。
のに、恥ずかしかったのだ。未だに真顔で天使とか言ってのけるダビデも、その一言で、あの絵本のそよかぜの王子を瞬時に思い出してしまった自分も。
「だってバネさん、黒い天使の、羽根毛!頭!」
「まだ!言うかっ!そりゃ、『跳ね』違いだっ!」
「おわっ!覚えてない?昔見せた、絵本!」
「ちっとも!覚えてねえ!よ!」
「お、れは思い出すよ!いっつも覚えてる!はるかぜ、と、ばら!」
「そ!よ!か!ぜ!!だろ!」
「なっ…!やっぱ!覚えてんじゃん!!」
蹴りの連打にもめげずに、ダビデが嬉しげな声を上げる。カーッと顔に血が上るのがわかって、ちっくしょう!蹴りに更に力が籠る。
「バネさん!俺は、ばらだよ!」
「ばらってタマか!このデカダビ!」
「バネさん!ばらはね、ばらは!はるかぜさん!」
「うっせ!」
「あんたに…バネさん」
突然、ダビデの抵抗の力が抜けて、蹴りを受け止めた体が海に向かってぐらり傾く。
「…ダビッ!」
本当に落ちるとは思わず、俺はたたらを踏んで、咄嗟にダビテに手を伸ばした。
その手首を、筋張ったでかい、しかし相変わらず白い手が強く掴んだ。
「みちづれ」
ダビテが薄く笑う。
笑みの隙間から、ばらいろの舌がちらり見えた。
ぐらり青空と海が反転して、真っ逆様に落ちる。
羽根を折られたあらしの王子は、それはもう恐ろしいほど真っ逆様に落ちて描かれた。
ばらを見捨てていれば、折られることはなかったんだ。
俺は、落ちるダビテの手に落とされるままだった。
ダビテが俺の何かを、折ろうとしている。
重力に引かれる勢いのまま、肌にぶつかる海水面。冷たい。熱い。痛い。寒い。
折られた俺は何になるんだろう。多分そよかぜには、なれない。
あたたかい。
ダビテが抱き締めてくる、その腕だった。
070625
リターン
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